世界一のありがとうを贈ります

沖縄から 荷物が

えっ  なんだろう

開けてみると うわああ うわあ

孫たちからだ

シイーサーだ

沖縄では家の守り神として 事務所 食堂など人が集まるところにはシーサーが鎮座されてます。人に幸せを運ぶ神様として沖縄中にシーサーが

大変上手な字で ラブレーターが

じじ ばばへ

嬉しいな マッキー

 

朱色のシーサーと 黒のシーサーが目の前に

遠い 沖縄からはるばると じじ ばばの家に

ありがとう

 

それもなんと手作りの世界に一つのシーサー

ジジとババは力が湧いてきました。

孫の力は世界一です。

忘れてはなりません

三人の孫を朝晩の食事 送り迎え そしてうどん職人として日夜頑張ってる娘

君の心遣いに頭が下がりますよ。

世界一の娘に 世界一のありがとうを贈ります

吉原と言えば

当然 俄吉原の芸術的日本伝統の舞台を見たあとは、、、、

スタミナの馬肉で有名な 馬肉専門の

木造建築の伝統の建物

壁には筋肉バリバリの馬の絵画が

うわあ  たくましいいね

新鮮な馬肉が目の前に  ドカンと

スタミナ満点 本当かな?

これは馬の どこの部分かな 確か内臓のあの部分かな

説明を受けたんだけど  忘れました

鉄鍋に馬肉と野菜と豆腐などがデーント

スタミナを付けましょうか

但し お酒が入ると 馬肉より お酒の世界に 我が友よ 大丈夫か

でも楽しいお酒であれば OK

高校時代からの友よ

飲んで 飲んで 飲まれて飲んで ついつい 奥様殿の顔が浮かんで来ましたぞ

こちらも30年来の友です

共に70代半ばの年齢の男の話は 当然

健康 健康 どこか悪いところは?

奥様に迷惑は?  大丈夫か

共通の話に花が咲きました

さあ 眠くなったから 早く帰ろうかな 吉原俄を鑑賞して馬肉を食べて お酒を飲んで

さあ  帰ろう

奥様のもとに

80代の年齢でも世界で活躍

平松礼二  1941年生まれ

今や 世界で彼の絵画の魅力に惹かれ 多くの会場で展示会が開催

富士の絵画は古来日本では有名な絵師が数多く書かれてきた。

しかし この御年で表現した富士山 そのあざやかな色彩と構図 鑑賞する人の心にまるで富士山が命の源として永遠にこの大和の国の人々の心に刻みつけられます。

ただ ただ 眺めるだけでいいのです

 

ヨーロッパで有名となった絵画

ただ ただ 眺めるだけで引き込まれるその絵画

その絵師の御年82歳

まだ まだ 小生75歳は未熟の一言

俄吉原?

ついつい 新聞で 俄吉原の案内の文字が

先ず 俄の読み方  調べました.

俄  にわかと読むんですね  驚きましたが 意味は急に動作をしたり、変化が現れるとのこと

それでは吉原俄とは?

江戸時代の遊郭で行われた即興の寸劇 狂言などを仲間と吉原の街を歩いたのが評判となった。

吉原で昔を思い 踊 狂言 落語の会が開催と

早速 仲間を誘い  いざ いざ 吉原に

ホテルの演芸場で 50名ほどの客席が

 

正面には昔 練り歩いた踊たち 狂言の芸人などの絵画が

すぐ前で まずは狂言 落語 長唄の稽古など参加者で歩調を合わせて つつみ 三味線などで歌いました

人生はじめての長唄 良かったね

つぎの開催のパンフレットが

素敵な芸者さんの踊 落語など お弁当 飲み物をいただきながら お殿様の気分で楽しみましょうか

友人の嬉しそうな笑顔を

楽しかったな

俄 いいですね 最高 その時の思いつきで行動 それならば

その呼び名のように 我々も俄で 吉原で有名な、、、、

馬肉を食べに行こう

踊るアホウに 見るアホウ

頭スッキリ そして 高円寺に

いよいよ始まります

なんだかウキ ウキ

駅前はご覧のように名もなくスタートの踊る人があちこちに

駅入り口は 人人で

やはりコロナのまえの時間に戻ってきました

本当に街全体が 踊りとカネの音で一杯

さあ もう少ししたら 始まり 始まり

スタート地点には連の人がそれぞれの姿で 今か今かと

この場所は狭い商店街の道の両側に 随分前から店の前に場所を確保 いつの間にかビール片手に宴会が

踊るアホウに 見るアホウ

頭スッキリ 心スッキリ

日本人 バンザイ

父から息子に

いつの間にか 高円寺の新東京に1ヵ月一度 通ってます   どこに?   新東京に

この思わず  新東京?と考えるが 高円寺では有名な床屋さん 今風に言えば バーバ新東京かな

どうして 高円寺まで?

実は小生の大事なお客様 それも10年ほど前 全体のリフォームした建物です。

当時はしっかりとした奥様がいましたが、、、、、

しかし今年 病気で亡くなりましたとの連絡が

この待合の場所のテーブルの上に 奥様の写真が

そして 奥様のことをご主人が話し始めた時 いつの間にか目には涙 まだまだ悲しみが残っていましたね

現在は しっかりとお父さんを支えて息子さんが頑張ってます

奥様のすがたに変わって息子さん  悲しみがありましたが 今ではしっかりと父と息子の二人三脚

小生の頭は今では息子さんと同じ姿ですぞ

床屋嫌いの自分が いつの間にか1ヵ月一度の訪問

特に息子さんに頭を洗ってもらう時 思わずその技術に惚れました。確か15分ぐらいの時間をかけて小生の頭のクリーニング これが最高に気持がいいんだな

当然お父さんより技術を受け継いでいますので安心です

約1時間半の時間で頭と小生の心まできれいにリフレッュ

さすが新東京産

親子の働く姿が 当時のご夫婦でお店で頑張ってる姿にダブりました。

奥さん 心配しないでください 父から息子に

お父さんも息子さんも頑張ってますよ

なんだか小生の息子との関係そっくりですぞ

息子家族から

夏休み 孫たちの希望で アメリカ旅行 それも なんと全部自分たちで日程を決めて格安の飛行機で出発

果たして帰ってくるのか心配でしたが

無事帰国の報告

そして お土産を  嬉しいな

真っ赤な ハリウッドのシャッと    なんとトロフイをもらいました。

 

げんちゃんにも ダイナミックナ骨を

ワン ワン  美味しいな

まさか この歳でハリウッドの赤シャツとトロフイで記念写真とは 長生きするもんですね

そしてこのハリウッド最高のトロフイには ピアレントの文字が  つまり 子供から最高の両親との証明かな

終戦記念日は反省の日か

戦後78年 戦争記念日が8月15日に各界の代表が出席して開催された。

そして 毎年その日には式典と共に 当然 戦争で故国から遠い外地で亡くなった御霊の英霊に頭を垂れ 平和を祈る姿が会場、TV などで紹介されて来た。

また 戦争とはなにか、平和がなにかをそれぞれの立場の人物が意見を述べて、特に日本は戦後 その反省から平和を第一に考え いつの間にか反省の意見が新聞、雑誌 報道機関などの意見が一色に染められてきた。

しかし 昨年 ウクライナにソビエトが侵入して 言葉より武器で多くの住民の命を奪い、今なお、戦いが続いてる。

当然 平和の言葉がなにか虚しく聞こえる。その時 報道機関はそれぞれの立場で意見を述べてる。小生は新聞は読売、産経の両紙を購読してるが 今年 小生が目についたのは産経新聞の京都大学名誉教授 佐伯啓思先生の記載された「終戦は反省の日だけでいいのか」記事が心に惹かれた。

日本は戦前の軍国主義からポッダム宣言を受理して たちまちアメリカを中心の自由 民主主義が日本中に広まった。当然 アメリカ中心の戦後の時代は軍国主義の反省から平和を第一に考える。しかしその影で 戦争で亡くなった多くの御霊が8月15日のお盆の日、それぞれの家に帰る日でもある。つまり終戦の日は戦争で亡くなった死者と共に各家庭で過ごす記念の日でもある。つまり生き残った者や子孫が死者の魂にふれる日でもある。

すべて戦前の反省から日本が自由や民主主義を軸とする戦後の民支給主義へと改心した記念日だけではない。その以前に死者への鎮魂と慰霊の日でもあることを忘れてはならない

 

父 母に 

我が家に友がー高校時代の心友ー小生の体調を心配して我が家に

そして 音楽教室に

校長が 2人に生のピアノで

いやあ  おふたりとも最高です

大好きなげんちゃんを膝の上に

嬉しそうなお二人ですね

ずうーうっと お膝の上に

翌日は長男家族と食事に

すっかり大きくなったね

中華料理で

息子も前半戦 頑張りましたね

食事のあと

父 母が 眠ってる お墓に

どんなことがあろうとも あなた方がおればこそ 我々はこの世に命を得て 子孫が続いてます。

合掌

ありがとうございます

安心してください。

子孫の我々は命を引き継ぎ

娘家族は沖縄で 孫が3人

長男家族は孫が2人

今我々老夫婦は9名の家族になりました。

そして 長男は小生の仕事を引き継ぎ 頑張ってます。

あと 息子家族 アメリカに夏休みに 出発

それも なんと予算の関係で 旅行会社に頼まないですべて 嫁さんが

安い飛行機で ホテルも自分たちで スケジュールも自分たち

いやはや 嫁さんの自立の精神で 格安旅行

我々老夫婦は おとなしく自宅でげんちゃんと共に夏休みは静かに静かに過ごしましょう。

上官殿  おとなしく家にいますのでよろしくお願いいたします。

78年間の時間が

広島に原爆投下78年のときが流れた 今日 平和祈念の式典が開催された。

この場所に原子爆弾が投下されてた今日 約5万人の参加者が平和公園で黙祷を捧げた。

それぞれの立場の政治家が平和を訴えた。

 

日本の総理大臣 岸田総理も平和を祈る言葉を御霊に捧げたが しかし 同じような言葉は以前もこの場所でも同じような立場の人か度々聞いた事がある。

どこが違うのだろう

一歩たりとも平和の言葉が人々の心に染み入ることはない。時間を遡れば

「8月6日 午前8時15分」

マリアナ諸島のでニアン島から飛び立ったB 29エノラゲイがリトル、ボーイと呼ばれた原子爆弾を当日の広島の青空の上空から投下

一瞬 地上は阿鼻叫喚の世界に変わり 泣き叫ぶ人々倒れた家屋の下になり 迫りくるう火災に包まれ、逃げ惑い、母を父を子供を呼ぶ声がアチラコチラに響き、まるで地獄の門が開かれ いつの間にか火災から逃げ惑う川面は死体の山になった。

その日には14万人の死亡者 負傷者8万人 そして人口に対する被害の割合はなんとは65パセントに達する。これは一般人に対して無差別の殺人です。

今で言えばロシアがウクライナの一般人に対しての攻撃と同じであり 戦争違反の行為である。

あっという間に灼熱で灼かれ、瞬時に失われた命、放射能の後遺症でどれだけの人が苦しんだろうか

この日 この場所 この時間で

それからどれだけの時間が流れたろうか

この場所で多くの政治家が平和を祈り、また多くの人が この場所でこの時間で どれだけ平和を祈願したのだろうか

 

同じような風景がどれだけ平和祈念公園の名前の下で流れたのだろうか。まして ウクライナに原爆投下などの言葉を投げつけてるロシア。あの時で時間が止まり 言葉は空虚な遊び言葉になった。

多くの戦争から何も学んでいない世界の指導者。

政治家の顔を見るたび 心に浮かぶのは苦しみ 泣き叫ぶ犠牲者の姿 あの時からどれだけの時間が流れたのだろうか

思わず テレビのスイッチを切ろうと思った時 小学生の姿、言葉がTVから聞こえてきた。

彼らの姿に時間が巻き戻され 一瞬、目の前で悶え 苦しむ人々の姿が映し出された。

それだけ 彼らの話がどの政治家より言霊として我々の心に響いてきた

平和は与えられるものでは無く 己の手で築けなければならない。