沖縄県立博物館 美術館

来沖すれば 必ず 訪問

沖縄県立博物館 美術館    沖縄を中心の芸術を展示
内部は ご覧のように 飲食店 美術展 歴史展などが

開催
今日は 稲嶺さんの個展が

落としが現在九〇代とか その方の芸風は果たして

果たして どんなのかな

みなさんがそれぞれ感じてください
年代、年代により 絵の色彩、題材が変わり

線がと記号から

明るい人がキャンパスに書かれ

沖縄の学校の壁などにも書かれてる。

 

まるで ピカソのような明るいタッチで

いいですな
この方のアトリエです
お年が九〇代とは  びっくり

一事一簣

一つのことを問い遂げれば 必ず 必ず 道が開ける。

素晴らしい 絵画に感動しました。

対馬丸事件

ここは 上官と対馬丸記念館に

以下 ネットからの紹介です。

戦争で犠牲になった学童の事件 詳細は次へ

1944(昭和19)年8月22日沖縄からの疎開学童約800人を乗せた日本の貨物船「対馬丸」が、長崎に向かう最中に、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」によって撃沈されました。

当時、対馬丸には「学童を含め約1800人が乗っていた」とされていますが、そのうち生存者はわずか280人程度、うち学童疎開者は60人ほどでした。』

http://tk.ismcdn.jp/mwimgs/3/e/1140/img_3e0a80f80cfc9760fcb6d1f26091ce64124815.jpg

1944年8月22日、多くの尊い命を乗せて撃沈された「対馬丸」(写真:日本郵船歴史博物館所蔵)

『1944年8月21日、那覇をたった学童疎開船「対馬丸は、22日夜に鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分で沈没した国民学校の学童や教員ら乗船者1788人のうち1485人(判明分)が死亡した。犠牲者のうち学童は780人で、6歳以下の子どもを含めると1000人余の幼い命が犠牲になった。助かった280人のうち21人が奄美大島付近に漂着した。』

「なぜ生かされた」9歳の重荷 – 西日本新聞

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail02_img.jpg

沖縄戦の絵】「対馬丸沈没 ?浮かぶ子どもの死体」

昭和19年8月22日、…船員として乗り組んだ疎開船「対馬丸」が沈没する光景。夜10時過ぎ、米軍の魚雷3発を受けた対馬丸は10分も経たずに左側に大きく傾き始め、危険を感じた中島さんは船から離れようと海に飛び込み必死に泳いだ。「ズドーン」という大きな音に振り返ると船は船尾から沈み始め、およそ20秒で姿を消した。しばらくすると船体から出る空気の泡とともに救命胴衣を着けた子どもたちが浮かび上がって来た。皆うつぶせで頭が海水に浸かり、死んでいるのがわかった。…イカダで3日間漂流の後、日本軍の船に救助された。…「生き延びた者として対馬丸の悲劇を伝え、若い次の世代に戦争が子どもたちの人生をめちゃくちゃにしたことを知ってもらいたい。私の耳には助けることが出来なかった子どもたちの悲鳴が今でも残っている」』

対馬丸沈没 浮かぶ子どもの死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

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対馬丸。乗客およそ、1700人のうち、800人あまりが、学童疎開に向かう子どもたちであった。

出航した翌日、対馬丸は、アメリカの潜水艦の攻撃を受けた。海に投げ出された子どもたちは、荒波の中で、次々と息絶えていった。

沖縄からの疎開は、国が勧めたものであった。アメリカ軍を迎え撃つ際、島の住民が、軍の足手まといになるという考えからであった。

対馬丸の沈没で犠牲になった人は、1400人以上。その半数が、疎開先へ送り出された子どもたちであった。なぜ多くの幼い命が失われたのか、生存者の証言をもとに、対馬丸の悲劇をたどる。

[証言記録 市民たちの戦争]海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~|番組|NHK 戦争証言アーカイブス

 

疎開に至るまで

『昭和16(1941)年12月8日にはじまった アジア太平洋戦争。はじめは勝ち戦を続けていた日本でしたが、翌年の夏から敗戦を重ねるようになり、昭和19(1944)年7月ついにサイパン島が占領されました。』

『「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で政府は奄美大島や徳之島・沖縄県のお年寄り、子ども、女性を島外へ疎開させる命令を出します。』

『…日本政府より沖縄県庁あてに 「沖縄島、宮古島八重山島から老幼婦女子を島外にひきあげさせよ」 の電報が届きます。』

『沖縄からは8万人を本土へ2万人を台湾へ移すことになりました。』

対馬丸記念館「対馬丸事件とは 出航前」

生存者の証言: Aさん

『…1944年7月7日にサイパンが玉砕し、日本の戦力が弱まって、米軍が本土に向かって北上してくるのをなんとしても沖縄で食いとめたい。沖縄にたくさんの兵力を送らないと戦えない。ところが沖縄は裕福な島ではないし、食糧難とかいろいろあるので、まずは戦力にならない女子供を疎開させたほうがいいんじゃないか。女子供10万人のうち8万人を本土へ、2万人を台湾へ送り、10万人の兵隊を沖縄に呼び込もう──そういう計画のもと、私たちは疎開させられることになったようです。

そんなことを私たち子供は知りませんから、本土(やまと)へ行ける、雪が見られる、汽車に乗れるとか、そういう憧れもあって、はしゃいでいました

母親は反対していましたが、私の父親と長兄が東京の会社に出稼ぎに行っていましたので、行けばふたりに会えると説得されました。父は私が4歳のときに家を出ていますから、ほとんど面影がないんです。なので、お父さんに会いたいという思いがありました。

私の家族は6人で、母はとても悩んでいました。67歳の祖母は猛反対でしたね。お年寄りは生まれ育った村を離れたくないものです。6年生の兄はとても行きたがって、「行くんだ、行くんだ」とみんなに言い、自分で申し込みをしてしまいました。』

会館の入り口には 対馬丸の模型が

古い貨物船で 鹿児島に  そして 魚雷により

沈没

船内は急遽作られたカイコベッドに大勢の学童が詰められ

狭いなか 揺れる船 そのうち からだの不調が

当然 船上にも多くの学童が横になり
 鹿児島目指して 集団疎開  そして 悲劇が

1700名の乗船者の内 学童 それ以下の子供含めて

1000名が海の中に
 まもなく 沖縄 那覇に 空爆が焼け野原となった 那覇
戦争という殺人  その犠牲となった1000名の学童

彼らの顔がまぶたに浮かぶ

二度と繰り返さない戦争

平和の言葉を心のなかに


沖縄で楽しみの一つが

国際道り、近くのリュウボウデパートに 来沖の時、

必ず 訪れる映画館

クラシックな映画を中心に

 心地よい クラシックなデザインに 大人の雰囲気が
 待合室も静かで 目の前の壁には なつかしい 懐かしい 名作の

出演者の写真が  懐かしい、俳優が こちらに 話しかけてくれますね。  そして 館内は  シックな内装
 スクリンの舞台は 木材で作り上げた装飾が これから始まる

映画の世界に引き込まれる夢の大人の物語へと 我々夫婦を

招待してくれます。

沖縄2日目

今日は 大好きな 南部の知念に

目の前には沖縄の海が

そこにある 食事ができる クルクルと言う 食事店

この店のカレーが有名で楽しみです。 孫から  じいじー、ばあばーへと突然 渡され

えっ  えっ

なんだろう?

随分 分厚いね
やあー

これは お金だ 1億ぐらいの札束が

うわあ、どうしょうか

ちょっと 待てよ

この紙幣の表の 数字が

ななんと  百万円の数字が

これは おもちゃのお金 それも百万円の数字が印刷された

おもちゃのお金

それでも一瞬の夢ができました
お金はすべて 上官殿に

1億ぐらいは 、いや、百万円の紙幣の束は いくらぐらいかな

ありがとうね  楽しかったよ 海をバックに

何十年前におとずれたクルクル あのときから 何十年と時間が過ぎ 今日は 娘夫婦、孫 そして上官とこの場所に

なんとなく 幸せが感じます。
これからは  君たちの時代だぞ

頑張れ  頑張れ

半年ぶりの沖縄に

コロナで 自粛していた 沖縄へ

やはり 飛行機は空き席があちこち

前回は3月 まだまだ 余裕がありましたね
久しぶりに マンションのベランダから空を見上げれば
  あれっ 雲の形が龍神様の顔が見えます。

大好きな龍神様に 沖縄で会うことができました。

いことがありますね
  到着の夜は

孫たちと6ヵ月ぶりの対面

いつの間にか なんだか 大きくなりました

焼き肉でスタミナ満点
今回は6日間の沖縄滞在
  娘家族の元気な姿を見ることが 嬉しいね あすは 娘家族と 小生の大好きな場所に

さすが、、、さすが、、

室内のかけ流し温泉に ゆったりと

そして 楽しみにしていた  料理

秋祭りと付いた お品書き 何種類だろう

すべて 食べられるだろうかまずは 30年来の友と乾杯
これからの料理
あわびだ、、

何年ぶりだろうか まだ まだ 料理が
ようやく デザートだ
お酒が なんと 八海山の原酒で一緒に作った 梅酒

初めての味は  最高風情ある 旅館でした。
翌日 女将さんが 見送りしてくれました。

出迎え 三分 見送り七分

まさに まさに

心地よいお宿でしたね
帰りは 海が見える 伊東の道の駅
ここで クーポンで買い物
電車 宿 土産 すべて 込で

一人 28000円なり 通常の半額くらいかな

おかげさまで友人夫婦と 充実した旅行ができました。

今年も ゴオー、ツウートラベルを使って 早速計画

次は どこかな

GOTO TRABERUに

早速 友人夫婦と ゴーツトラベルに

伊豆急で伊東温泉に

まずは 電車に乗る前に駅弁

すごいな  久しぶりの 伊豆急

それも グリン車ですぞ
これが 楽しみ

選ぶまでの時間が  いいですね

 

全国のお弁当が多数 弱ったな

しかし 定番の 幕の内で決着
豪華な車内は  いいですな
到着  伊東温泉に

電車 それも 新車両の往復含めて

通常 宿は 1泊  3万円から 5万円の宿代含めて

なんと 全て込みで3万円  さすが  ゴオーツウ トラベル あとは  宿が、、どうかな

しかし 高級料理宿です  楽しみしましょう
久しぶりの 海
海は 広いな  大きいな 行ってみたいな他所の国
お茶で最初の おもてなし 夕食までの時間

近くを散歩

名所の東海館 伊東温泉で 芸者さんの踊りなどを紹介

昔のお大臣が建築

いいですね
川沿いには 竹が植えられ 夜は 竹には照明が灯され

風情満点の  観光スポット
さあ まずは お風呂

それも 部屋にも 共通浴室にも

すべて かけ流しの温泉

その 温泉宿の名前は 料理宿 淘心庵 米屋

 

果たして 楽しみだな

30年間の友と

小生の大好きな ここは目の前には もう少ししたら 落ち葉となる樹木が

残り少ない緑の姿で 温泉上がりの心地よい時間を

応援してくれますね

湯上がりの ビールの美味しさは  やはり
今日の友との会食は

行きつけの神楽坂の酒季です

こじんまりとした落ち着いた居酒屋で
100種類近くの料理は 一人の料理人が

本当に手作りの料理が  感心します
さああ  30年間の時間を共に過ごしたこと 縁が続いてること

すべて 感謝ですね
東北出身で 私の会社の水回りの施工を 小生が30年前に

彼に頼んだことがきっかけ

その時は まだまだ少ない人数で仕事を請けていたが

今では 水回りの施工は彼の会社

TOTOからの仕事も多く受けて 信用、信頼があり

そんな彼との30年の積み重ねなどは 本当に人生30年間

共に生きてきた証です

ありがとう  友よ

暴走し始めたかな

郵便ポストに

何でしょかね

実は 実は

興味 興味で 暴走気味に

アカデミースクール

いわゆる 芸能界に興味ある生徒さん  募集に

応募

当然  結果は   落選
  あれっ  あれっ

これは、、、  合格書

なんと 第一次選考に  合格  えっ?

本当かね。。。

第一次選考合格者は 5人に一人らしい

次は 直接 面接 自己ピーアール などがあるとのこと

何でも シニア部門での応募者の中から

小生 つい最近 マツコデラックスでインタービュウを受け

TV画面に 小生の顔が放映されました。

翌日 久しぶりの知り合い亜からの突然の電話

あちこちから 声をかけられました。

勇気づけられて 元気な内、何でも挑戦することが一番

自伝小説 神様の贈り物が 評判がいいので

つい つい 演劇の分野でもと暴走しつつ

しかし 一番の理由は  おおきな声を出す練習があると聞いて

72歳  いや  もう少ししたら73歳の

雄叫び声えを もしかしたら 皆さんに届けられたらかな

果たして 果たして  どうなるのでしょうか

安土桃山時代美術展に

東京都美術館で

安土桃山時代の美術展が開催

久しぶりの 上野公園に

平日で 人はまばら
片隅で 大道芸が  声を出して集客

投げ銭ですね

さすが  上野公園かな

信長 秀吉 そして 家康へと

室町時代の終わりから 信長 秀吉 そして 家康の 約50年間 一番 華やかな時代に 絵画 茶器 陶器 佛具そして武士の甲冑などが 花咲いた時期で合った。


特に 秀吉が 天下統一で 己の存在を見せるため 華やか

芸術が各界に広がった。
まさに 平和な時代が訪れた。
ネット予約のみで 時間制限
館内は 充分至近距離が取れて ゆったりと鑑賞

もし あの時代にタイムスリップができるなら

今まで 抑え込められた心の中が 爆発した時代の

ど真ん中で 思わず あちこちへと彷徨う自分を見つけるでしょう