以下 ネットからの紹介です。
戦争で犠牲になった学童の事件 詳細は次へ
1944(昭和19)年8月22日、沖縄からの疎開学童約800人を乗せた日本の貨物船「対馬丸」が、長崎に向かう最中に、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」によって撃沈されました。
当時、対馬丸には「学童を含め約1800人が乗っていた」とされていますが、そのうち生存者はわずか280人程度、うち学童疎開者は60人ほどでした。』
『昭和19年8月22日、…船員として乗り組んだ疎開船「対馬丸」が沈没する光景。夜10時過ぎ、米軍の魚雷3発を受けた対馬丸は10分も経たずに左側に大きく傾き始め、危険を感じた中島さんは船から離れようと海に飛び込み必死に泳いだ。「ズドーン」という大きな音に振り返ると船は船尾から沈み始め、およそ20秒で姿を消した。しばらくすると船体から出る空気の泡とともに救命胴衣を着けた子どもたちが浮かび上がって来た。皆うつぶせで頭が海水に浸かり、死んでいるのがわかった。…イカダで3日間漂流の後、日本軍の船に救助された。…「生き延びた者として対馬丸の悲劇を伝え、若い次の世代に戦争が子どもたちの人生をめちゃくちゃにしたことを知ってもらいたい。私の耳には助けることが出来なかった子どもたちの悲鳴が今でも残っている」』
対馬丸。乗客およそ、1700人のうち、800人あまりが、学童疎開に向かう子どもたちであった。
出航した翌日、対馬丸は、アメリカの潜水艦の攻撃を受けた。海に投げ出された子どもたちは、荒波の中で、次々と息絶えていった。
沖縄からの疎開は、国が勧めたものであった。アメリカ軍を迎え撃つ際、島の住民が、軍の足手まといになるという考えからであった。
対馬丸の沈没で犠牲になった人は、1400人以上。その半数が、疎開先へ送り出された子どもたちであった。なぜ多くの幼い命が失われたのか、生存者の証言をもとに、対馬丸の悲劇をたどる。
疎開に至るまで
『昭和16(1941)年12月8日にはじまった アジア太平洋戦争。はじめは勝ち戦を続けていた日本でしたが、翌年の夏から敗戦を重ねるようになり、昭和19(1944)年7月ついにサイパン島が占領されました。』
『「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で政府は奄美大島や徳之島・沖縄県のお年寄り、子ども、女性を島外へ疎開させる命令を出します。』
『…日本政府より沖縄県庁あてに 「沖縄島、宮古島、八重山島から老幼婦女子を島外にひきあげさせよ」 の電報が届きます。』
『沖縄からは8万人を本土へ2万人を台湾へ移すことになりました。』
生存者の証言: Aさん
『…1944年7月7日にサイパンが玉砕し、日本の戦力が弱まって、米軍が本土に向かって北上してくるのをなんとしても沖縄で食いとめたい。沖縄にたくさんの兵力を送らないと戦えない。ところが沖縄は裕福な島ではないし、食糧難とかいろいろあるので、まずは戦力にならない女子供を疎開させたほうがいいんじゃないか。女子供10万人のうち8万人を本土へ、2万人を台湾へ送り、10万人の兵隊を沖縄に呼び込もう──そういう計画のもと、私たちは疎開させられることになったようです。
そんなことを私たち子供は知りませんから、本土(やまと)へ行ける、雪が見られる、汽車に乗れるとか、そういう憧れもあって、はしゃいでいました。
母親は反対していましたが、私の父親と長兄が東京の会社に出稼ぎに行っていましたので、行けばふたりに会えると説得されました。父は私が4歳のときに家を出ていますから、ほとんど面影がないんです。なので、お父さんに会いたいという思いがありました。
私の家族は6人で、母はとても悩んでいました。67歳の祖母は猛反対でしたね。お年寄りは生まれ育った村を離れたくないものです。6年生の兄はとても行きたがって、「行くんだ、行くんだ」とみんなに言い、自分で申し込みをしてしまいました。』
会館の入り口には 対馬丸の模型が
古い貨物船で 鹿児島に そして 魚雷により
沈没
狭いなか 揺れる船 そのうち からだの不調が
当然 船上にも多くの学童が横になり
鹿児島目指して 集団疎開
そして 悲劇が
1700名の乗船者の内 学童 それ以下の子供含めて
1000名が海の中に
まもなく 沖縄 那覇に 空爆が
焼け野原となった 那覇
戦争という殺人 その犠牲となった1000名の学童
彼らの顔がまぶたに浮かぶ
二度と繰り返さない戦争
平和の言葉を心のなかに