現場は、、、

紹介のお客様ですが

NPOの事務所のトイレの施工

やはり 現場は養生がすべて

果たして 現場の養生は? さすが 玄関ホールの入り口は  満点
現場の廊下も当然 エレベータの中も

満点
狭いトイレを かべを広げ

段差があった床を バリアフリーに

今まで狭かったトイレが 果たして

お客様のご満足が得られるでしょうか

天空の世界に

今日は渋谷

小生の年代では別世界と感じる街

本当に1年ぶり

そんな街を訪問したのは
  作家の勉強を学ぶため 小生の処女作「神様からの贈り物」

出版のきっかけを作ったのが 東京作家大学

一年余 学んだのがこの学校  今回は脚本の勉強を学ぶためのセミナーに参加セミナー終了後 目の前に毅然と天高くそびえ立つ高層商業ビル

そして TVで 屋上が別世界が広がると紹介されてるのを

思い出し いつの間にか

怖いもの見たさに  切符売り場に

えっ、、、入場料 二〇〇〇円

高いな  高齢者割引なし 渋谷は年寄りには優しくないな

ここまで来て引き返すことは、、、、
  このエスカレータの上に 天空の世界が待ってるのかな 到着

雲の合間に東京の町並みが足元に


上空を」見上げると スーパマンだ  いや 飛行機が

渋谷の上空に飛行機が飛んでるとは  以下 高所恐怖症の言葉が頭の中、心のなかで

踊りながらスマホのカメラスイッチを パチリ   名前は スカイギヤラリですが

なんとなくトウキョウスカイツリーのほうが親しみがわきますね  この画面は なんと 帰りのエレベータの天井に

映し出された画面  まさか 頭の上でキラ キラ動く

画像に驚いた

これは別世界から地上への サインかな  やっと いつもの世界に

この店で 題名に惹かれ ついつい

記念商品かな
 地上の世界は いいねが 感想でした。

そして 入場料金 二〇〇〇円は高いな

受験番号F209

何だ なんだと 明日は締め切り

新聞のエッセイーへの応募の締め切り

神楽坂の書斎で朝から 夜まで  なんとか 書き上げ、窓の外を見れば 明かりがあちこち
翌日は 高田馬場に
 途中 早稲田松竹映画館を横に見て
  このビルが目的 なんと  オーデション?

次から次ぐへと 受験者がゾロゾロと

びっくり
  そして 受験番号が手元に  今日は第二次受験日

ななんと 小生 今日 オーデションの日

この試験は   下郎売りの言葉を正しく、間違いないように朗読すること

歌を歌う事、

自分をアピールする事

など 審査員の前で 発表

きっかけは 大声を出す練習ができる勉強ができる

ただ ただそれだけで 書類応募したら なんと

一次試験が合格になり

今日は 面接試験日

TV 画面のモニターをみて 応募の理由を話してくれと

言われても 難しいですね

歌も歌詞を忘れ 途中でリタイアこんな立派なパンフレットが送られてきたが

いい 経験が 七二歳でできました。

結果は後日 郵便で送られてくるらしいですが

おそらく 多分 いや 不合格でしょう
  帰りは たいやきを 自宅で待っている上官のお土産に  七二歳でのタレント試験

次は どこにチャレンジしょうかな

やっと会えたね、、

前回、半年前に このお好み焼きの店に

本当に 久しぶりに

小生は 料理屋では必ず、カウンターに座り 料理人の立ち振舞をみています。

目の前で お好み焼き、その他の料理を作る料理人の

姿に 何か感じることができれば また顔を出します。
本当に お好み焼きは数年に一度ですが
 今回この店に来たのは 料理を食べた時 お皿から顔を出した

この 文字

やっと会えたね

おこのみやきの下から見えた 魔法のような言葉に

心が動きました


なんと 店長は 初めて カウンターに座った小生を覚えて

くれました。目の前でお好み焼きを作るプロの味に

感動

そしてお客様の顔を覚えるのは当たり前との事

プロですね

そして 店の前で パチリ  パチリ

池袋駅 エソラ 千房

また 顔を出すよ

石神井公園へ

歯医者の治療の帰りに

ぶらりと

石神井公園に

今から六〇年前、よく この公園に自転車で

懐かしさがいっぱいの公園

まるで 童話の世界に迷う主人公のように この道の奥には

もしかしたら、、、、の世界へ続くかもしれない

     夕方の光が湖面を照らし

色づいた紅葉がを静かに時の流れを伝えてる。  湖面に映し出される木々の姿

樹齢 何十年の木々が 何十年前も同じような姿で

見つめる人々に何を問いかけてるのだろうか

もしかしたら 六〇年前の小生の姿を覚えてるのだろうか

鬼滅の刃だあー

あかりちゃん じじが見つけて来たよ

これで いいのかな

全部 鬼滅の刃だよ

孫が大好きな鬼滅の刃の
ポスターを探して
探して
映画館を
 見つけた時
 夢中で 夢中で
  周りの目を気にしないで パチリ パチリ 頑張ったよ これで いいのかな

あかりちゃん

沖縄の息子たち

かわいい息子が 沖縄に四人

早速 父親との宴会

元気一杯

仕事を離れても この縁を

仕事の関係で小生と知り合ったが ご覧のように彼の人柄に

父親として 誇りに
そして 九州男児の息子

東京から沖縄

こうやって 那覇で美味しいお酒が飲めるのも縁ですね。

信じ合うこと 信じ合うこと

良い息子に育った
今日は 何十杯のお酒が

息子達と過ごす時間

それも 沖縄で

ありがたいですね

2人の息子に心配かけないように

暴走しないように

共に 九州男児   頑張れ 頑張れ
翌日は いよいよ 東京へ

娘は仕事を休んで 見送りに来てくれました。
沖縄で 妻として 三人の母親として 生きる娘に

感謝 感謝   頑張れ

エールを送るよ
  いざ いざ 東京へ

沖縄県立博物館 美術館

来沖すれば 必ず 訪問

沖縄県立博物館 美術館    沖縄を中心の芸術を展示
内部は ご覧のように 飲食店 美術展 歴史展などが

開催
今日は 稲嶺さんの個展が

落としが現在九〇代とか その方の芸風は果たして

果たして どんなのかな

みなさんがそれぞれ感じてください
年代、年代により 絵の色彩、題材が変わり

線がと記号から

明るい人がキャンパスに書かれ

沖縄の学校の壁などにも書かれてる。

 

まるで ピカソのような明るいタッチで

いいですな
この方のアトリエです
お年が九〇代とは  びっくり

一事一簣

一つのことを問い遂げれば 必ず 必ず 道が開ける。

素晴らしい 絵画に感動しました。

対馬丸事件

ここは 上官と対馬丸記念館に

以下 ネットからの紹介です。

戦争で犠牲になった学童の事件 詳細は次へ

1944(昭和19)年8月22日沖縄からの疎開学童約800人を乗せた日本の貨物船「対馬丸」が、長崎に向かう最中に、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」によって撃沈されました。

当時、対馬丸には「学童を含め約1800人が乗っていた」とされていますが、そのうち生存者はわずか280人程度、うち学童疎開者は60人ほどでした。』

http://tk.ismcdn.jp/mwimgs/3/e/1140/img_3e0a80f80cfc9760fcb6d1f26091ce64124815.jpg

1944年8月22日、多くの尊い命を乗せて撃沈された「対馬丸」(写真:日本郵船歴史博物館所蔵)

『1944年8月21日、那覇をたった学童疎開船「対馬丸は、22日夜に鹿児島県・トカラ列島の悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、11分で沈没した国民学校の学童や教員ら乗船者1788人のうち1485人(判明分)が死亡した。犠牲者のうち学童は780人で、6歳以下の子どもを含めると1000人余の幼い命が犠牲になった。助かった280人のうち21人が奄美大島付近に漂着した。』

「なぜ生かされた」9歳の重荷 – 西日本新聞

http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/picture/style/img/detail02_img.jpg

沖縄戦の絵】「対馬丸沈没 ?浮かぶ子どもの死体」

昭和19年8月22日、…船員として乗り組んだ疎開船「対馬丸」が沈没する光景。夜10時過ぎ、米軍の魚雷3発を受けた対馬丸は10分も経たずに左側に大きく傾き始め、危険を感じた中島さんは船から離れようと海に飛び込み必死に泳いだ。「ズドーン」という大きな音に振り返ると船は船尾から沈み始め、およそ20秒で姿を消した。しばらくすると船体から出る空気の泡とともに救命胴衣を着けた子どもたちが浮かび上がって来た。皆うつぶせで頭が海水に浸かり、死んでいるのがわかった。…イカダで3日間漂流の後、日本軍の船に救助された。…「生き延びた者として対馬丸の悲劇を伝え、若い次の世代に戦争が子どもたちの人生をめちゃくちゃにしたことを知ってもらいたい。私の耳には助けることが出来なかった子どもたちの悲鳴が今でも残っている」』

対馬丸沈没 浮かぶ子どもの死体 | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

f:id:neverforget1945:20190810004848p:plain

対馬丸。乗客およそ、1700人のうち、800人あまりが、学童疎開に向かう子どもたちであった。

出航した翌日、対馬丸は、アメリカの潜水艦の攻撃を受けた。海に投げ出された子どもたちは、荒波の中で、次々と息絶えていった。

沖縄からの疎開は、国が勧めたものであった。アメリカ軍を迎え撃つ際、島の住民が、軍の足手まといになるという考えからであった。

対馬丸の沈没で犠牲になった人は、1400人以上。その半数が、疎開先へ送り出された子どもたちであった。なぜ多くの幼い命が失われたのか、生存者の証言をもとに、対馬丸の悲劇をたどる。

[証言記録 市民たちの戦争]海に沈んだ学友たち ~沖縄 対馬丸~|番組|NHK 戦争証言アーカイブス

 

疎開に至るまで

『昭和16(1941)年12月8日にはじまった アジア太平洋戦争。はじめは勝ち戦を続けていた日本でしたが、翌年の夏から敗戦を重ねるようになり、昭和19(1944)年7月ついにサイパン島が占領されました。』

『「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で政府は奄美大島や徳之島・沖縄県のお年寄り、子ども、女性を島外へ疎開させる命令を出します。』

『…日本政府より沖縄県庁あてに 「沖縄島、宮古島八重山島から老幼婦女子を島外にひきあげさせよ」 の電報が届きます。』

『沖縄からは8万人を本土へ2万人を台湾へ移すことになりました。』

対馬丸記念館「対馬丸事件とは 出航前」

生存者の証言: Aさん

『…1944年7月7日にサイパンが玉砕し、日本の戦力が弱まって、米軍が本土に向かって北上してくるのをなんとしても沖縄で食いとめたい。沖縄にたくさんの兵力を送らないと戦えない。ところが沖縄は裕福な島ではないし、食糧難とかいろいろあるので、まずは戦力にならない女子供を疎開させたほうがいいんじゃないか。女子供10万人のうち8万人を本土へ、2万人を台湾へ送り、10万人の兵隊を沖縄に呼び込もう──そういう計画のもと、私たちは疎開させられることになったようです。

そんなことを私たち子供は知りませんから、本土(やまと)へ行ける、雪が見られる、汽車に乗れるとか、そういう憧れもあって、はしゃいでいました

母親は反対していましたが、私の父親と長兄が東京の会社に出稼ぎに行っていましたので、行けばふたりに会えると説得されました。父は私が4歳のときに家を出ていますから、ほとんど面影がないんです。なので、お父さんに会いたいという思いがありました。

私の家族は6人で、母はとても悩んでいました。67歳の祖母は猛反対でしたね。お年寄りは生まれ育った村を離れたくないものです。6年生の兄はとても行きたがって、「行くんだ、行くんだ」とみんなに言い、自分で申し込みをしてしまいました。』

会館の入り口には 対馬丸の模型が

古い貨物船で 鹿児島に  そして 魚雷により

沈没

船内は急遽作られたカイコベッドに大勢の学童が詰められ

狭いなか 揺れる船 そのうち からだの不調が

当然 船上にも多くの学童が横になり
 鹿児島目指して 集団疎開  そして 悲劇が

1700名の乗船者の内 学童 それ以下の子供含めて

1000名が海の中に
 まもなく 沖縄 那覇に 空爆が焼け野原となった 那覇
戦争という殺人  その犠牲となった1000名の学童

彼らの顔がまぶたに浮かぶ

二度と繰り返さない戦争

平和の言葉を心のなかに


沖縄で楽しみの一つが

国際道り、近くのリュウボウデパートに 来沖の時、

必ず 訪れる映画館

クラシックな映画を中心に

 心地よい クラシックなデザインに 大人の雰囲気が
 待合室も静かで 目の前の壁には なつかしい 懐かしい 名作の

出演者の写真が  懐かしい、俳優が こちらに 話しかけてくれますね。  そして 館内は  シックな内装
 スクリンの舞台は 木材で作り上げた装飾が これから始まる

映画の世界に引き込まれる夢の大人の物語へと 我々夫婦を

招待してくれます。